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サンサンコーナー

リスクとヘッジ

 カタカナ語辞典で「リスク」と「ヘッジ」を繰ると「リスク」は危険、冒険、危険率、損害の可能性、
「ヘッジ」は垣根、障壁、賭け事で両方に賭けて損失を防ぐこと、と書かれています。
 今日本人はこのリスクとヘッジの問題を忘れているのではないかと思う程リスクに対して無防備だと思います。昔から良いに悪いは付き物、良薬口に苦し、旨い話には気をつけよと言われています。全ての行いにはリスクがありますよ、ということを言っているのだと思います。車を運転すれば、どんなに交通ルールを守っていても何%かの確立で事故にあいます。子供が何かで遊んでいれば、何%かの確立で事故が起きます。何をしてもある確立で事故が起こる可能性があるのです。この事故の可能性を限りなくゼロにしようというのが私達人間の努力であり、そこに学ぶべき事があるのではないかと思います。つまり、失敗から学ぶという事がそれだと思います。
 しかし今の日本人の動向を見ていますと、失敗を恐れるあまり行動そのものをしないようにしている、又行動しても国が全部フォローしてくれるという親方日の丸的な図式が出来上がっているように思います。それに対して、その親方は法律をドンドン作って取り締まろうとしています。その法律は国民をドンドン幼稚化させてきているように思うのです。
 例えば食品の賞味期限の問題です。赤福のもちを食べて腹痛をおこしたという話はついぞ聞いたこともありませんし、賞味期限が過ぎたものを少々食べても殆んど何ともないので、各家庭でも日常食べていると思います。さらにこの賞味期限切れの時が一番美味しいという方もいます。でもこれにもリスクはあるのです。体の調子にもよりますが、何%かの確立で食あたりをするかもしれません。それは本人責任なのです。それを法律で決めてしまうとおかしくなってしまうのです。交通事故を無くすには車に乗らなければ事故は起きないのです。ペーパードライバーが一番事故を起こさないのです。それでも歩いていて車にはねられるかもしれない確率が残るのです。
 今は車に乗らない式の解決方法か国が何とかしてくれる方式が日本には異常に多いのです。その結果国民にリスクに対するヘッジの感覚が非常に薄くなり、私達事業者も投資をしても儲かるだけで損は一切無いという物を追い求めます。しかしそんな良い物、良い所だけの良いとこ取りの物はこの世には殆んど存在しないのです。いかにリスクを少なくして利を追求するかなのです。
 私達の業界でも、仕事をしていますとある確立で必ずトラブルが発生します。このトラブルに蓋をしているとその会社はダメになります。そのトラブルに対して如何にして一生懸命努力して解決していくかが本当の仕事になるのです。仕事のできる人は必ずトラブルを抱えるのです。でも今の一部の公務員はトラブルを抱える事を嫌い、何もしない人が増えているように思われます。つまりペーパードライバーがどんどん増えていると思われます。民間はそんな事をすると、すぐに淘汰されてしまうので問題ないのですが、公は淘汰されないという事が大問題なのです。でも淘汰されないというのは錯覚だと思います。公も淘汰される時代に突入しているのです。公も破産のリスクがあるというのが例えば夕張市なのです。
 私は向こう傷のある人は好きですが、後ろ傷のある人は嫌いです。これは常に物事を成すにリスクがあり、その傷がヘッジに繋がると思っているからです。リスクとヘッジ、この問題は大変大きな問題なので後の話は次回にしたいと思います。乞うご期待!

調亮

あけましておめでとうございます

 新しい年はどんな年になるのでしょう。
 平穏な落ち着いた年となるのでしょうか。
 昨年は精神病的な事件、偽りの事件が多発して人々を不安に陥れました。
 平穏は平和にしようと叫んでいればなるのではなく、平穏になる為の絶え間ない努力が必要なのです。
 パクス・ジャポネ(平和な日本)は偶然なったものではなく、私たちの先人が血と汗で築いてきたものなのです。それを私たち日本人は無為徒食し、浪費しているのかもしれません。
 平和の連鎖こそが今求められていると思います。私たち日本人は、平和平穏のために常に世界に働きかける使命があるのではないかと思っています。そういう意味の意識改革の年としたいと思っています。
 光ある所に常に影あり。光ばかりではなく影の部分も見据えて活動したいと思っています。今年もよろしく!

調亮

民法が国を滅ぼす

 前々回『脱皮できない蛇は死ぬ』という、ニーチェの言葉を紹介しましたが、その言葉が今重く我々日本人の制度改革にのしかかってきています。それは日本の民法が時代を経て、今の実状に合わなくなってきているということです。こう思うのは私ひとりでしょうか?
 民法は日本人の生活の規範を成すものとして制定されているものなのですが、それがカタカナで表記されている為に実に読みにくく、これが本当に国民の事を考えた法律なのかと思います。これを我々に馴染んだ漢字ひらがな表記に改正しようという動きもあるようですがなかなかできないようです。形式の改正すらできないのにその法文の中身の改正なんてとてもとても、できるとは……。
 でも民法は国民の生活を規制するもので、とても大切な法律です。憲法9条の改正よりもっと大切なものだと私は認識しています。
 例えば相続の問題です。今現在相続に直面している家庭では夫・妻・子供3人ぐらいの家族構成が一般的です。例えば夫が先に死ぬと妻に二分の一、子供一人ひとりにそれぞれ残り二分の一の三分の一、つまり六分の一ずつ相続の権利が発生します。これは憲法の下における個人の平等の権利のおかげです。でもこの平等がとても曲者なのです。民法では権利の平等のみをうたっています。いや負債はうたってあるよといわれるかもしれません。でも私は主に権利の平等のみをうたって、義務の平等をうたっていないことを言いたいのです。義務の平等とは、親の面倒を見る、墓を守り祖先を守る、兄弟姉妹の面倒を見るという家を守る義務の平等化を一切うたっていないということなのです。
 この事によって今日本の家がどんどん崩壊してきています。老人は老人ホームへ入れてしまって一切放ったらかし、そして亡くなったら相続の権利だけを主張するという現象が起きています。日本中の裁判所で裁判調停が行われているというのが今の日本の現状です。その結果核家族化が進み老人と若者・子供との分離が進み、認知症老人を大量生産し、子供の非人間性を促進し、今の世の中の非人間的事件を誘発しているのではないかと思います。
 そんなに遠くない昔、日本の家では、老人も若者も子供も皆一緒に生活し、例えば親無し子であっても年寄りが面倒を見、子供が親や祖父母と一緒に生活する事により、優しさや思いやりを養い、いたわりの心を身につけ老人、若者、子供とバランスの取れた生活を家の中でしていたのです。私は日本の家の制度というのはいろいろな意見もあると思いますが、このようにとても良い制度であったと思います。この制度が、日本の現状を考慮しない法律によってどんどん破壊されていっている現状を考える時、私たち日本人は日本人の為の法律を日本人の手で考え制定する時期に今来ているように思えるのです。一説によるとアメリカはこの日本の家の制度を壊す為に今の法律を作成したという人もいます。このアメリカから押し付けられた法律だと言われる今の憲法も含めて、日本人自身の手で作成するところまで私たち日本人は熟成してきているのではないかと思います。
 『ローマ人の物語』(塩野七生著)の中で「ローマ人は社会の実情に合わなくなった法律はどんどん新しい法律を作り、古い法律を脱ぎ捨てていった」とあります。それが千年のローマ帝国の形成を成した要因であると言っています。まさにその通りで、法律とは制度を作る事で、今までの平和な安定していた日本社会が、奇妙な精神病的な事件が多発し、不安定な混乱の方向へ向っている原因が家の崩壊にあるとしたら何の為の法律なのだろうか・・・・?

調亮

健全な「国家」は健全な「家族」の保護と育成なしには成り立たない
塩野七生著『ローマ人の物語』より

脱皮できるには!!

 前回『脱皮できない蛇は死ぬ』を書きました。では脱皮するにはどうしたらよいのでしょうか?それには教育制度の改革しかないと思います。
 まずは今の教育制度が点数主義である事。国語・数学・理科・社会・英語、中でも英語と数学に良い点数を取れば良い大学へ行け、良い会社に入れ、高給が保障されるという時代が長く続きました。世の母親たちは自分が叶えられなかった夢を子供たちに託し、勉強、勉強と追い立ててきました。そんな中で勉強のできる人は経営者のトップとなり、官僚となり又は政治家となり首相となる。という事になれば、教育ママはより一生懸命に教育ママになり、益々子供に勉強を押し付けることになります。
 今の教育制度では、こんな風に点数の良い人が優秀と評価されます。でもその教科は殆んどが記憶力のテストなので、記憶力の良い人が高い点数を取り、優秀な人とされるのです。でもこれからの社会は記憶力の良さだけで渡っていける程甘くはありません。今までは欧米の真似をしていれば良かったのですが、今の日本はそういう訳にいかない時代になってきているからです。『猿真似の日本人』と欧米の人達から評価されていますが、それから脱皮しなければならない時期に来ていると思います。明治・大正・昭和と、欧米に追いつけ追い越せの時代は記憶力で十分勝負できたのですが、これからは創造力が必要とされる時代です。これからは記憶力のみの教育では如何かと思います。
 その次は社会のトップに立つ人、例えば政治家・企業家・教育者などの不祥事の多さです。それは心の教育が無いという事実です。
 戦争に負けたショックで、教育から宗教・道徳といった心の教育の全てが取り除かれてしまいました。その影響で、良い事悪い事の区別がつかない人間がどんどん増え続けています。オウム真理教の問題が如実にその事を表していると思います。高学歴で優秀な人が麻原教祖(彼自身は高学歴ではありませんが)に使われ、あのような事件を起こしたわけです。その高学歴者達に良心というものがあったのでしょうか。なかったのでしょう。何故なら、小学校から大学まで、心の教育というものを受ける機会が一切無いからです。記憶力の良い頭でっかちが世の中に粗製乱造されています。気持ち悪いですね。
 第三には、人類が今迎えようとしている環境の教育です。今地球が悲鳴を上げているにもかかわらず、その環境の教育がおざなりにされています。経済至上主義が環境を無視し、身の回りから自然が失われる事に全く無頓着な人間がいっぱいいます。子供の頃から自然と触れ合う機会がなく、いろいろな弊害を招いています。環境の教育がぜひ必要です。
 以上述べてきた一、創造性を育てる教育 二、心の教育 三、環境教育 この三つこそ教育制度として取り入れ、実行すべきだと思います。教育制度の改革は時間がかかります。早くしないと手遅れになりそうです。

調亮

脱皮できない蛇は滅びる

戦後61年という歳月が過ぎました。国会では憲法9条を改正しなければという論議が喧しかったのですが、参議院選の自民党の惨敗によって少し静かになったようです。
でも本当に静かになって良いのでしょうか?戦後61年の経過によって、制度が色々とがたついています。例えば公務員の汚職、これはもう個人の資質というより制度的なものであるとしか思えないような数の多さです。
家の崩壊、これは民法による偏った平等によりもたらされている気がします。権利だけが平等で義務は無視される(これは以前このコーナーで述べた相続の問題です)具体的には相続財産は平等に分配し、先祖のお墓の管理は無視ということです。お墓や法事のお世話は誰がするの?誰かが勝手にしなさい、勝手にどうぞという具合で日本の古き良き伝統であった家というものが全く破壊され、核家族化が進んでいます。その結果老人は施設へ。子供を育てられない親、子供をいじめる親、子供を殺す親、逆に親をいじめる子供、親を殺す子供というように家の崩壊を促進させている元凶が民法なのです。
その他のひずみがいっぱい出てきているにも係わらず、民法はそのまんまで、今だにカタカナで書かれた条文で非常に読みにくく解釈しにくくなっています。その為、今の世に合わなくなってきているにも係わらず放置している結果、社会がおかしくなってきているのです。その他都市計画法しかりです。
何故改正が必要かを卑近な例で示してみます。道交法の問題です。福岡での飲酒による子供の殺人(殺人と言っても良いでしょう)によって道交法が大きく変わりました。罰金100万円、同乗者にも罰金、飲ませた店にも罰金という具合にこれまた行き過ぎかと思われるほどの強化です。これは社会の変化による法律の改正なのです。このように飲酒運転での殺人みたいに分かり易い場合は即座に改正してしまうのですが、家の崩壊のように社会にじんわりと影響を与えるようなことは、なかなか制度改革に踏み切れないのが現実です。
自分の国を他人に守ってもらう国、そんな国の国民は権利のみを主張し義務を忘れるという社会の風潮を作り出し、今まさにそうなっていると思います。
ドイツの哲学者ニーチェが言っています。「脱皮できない蛇は滅びる」まさに今の日本はその滅びへまっしぐらに向っているように思えてなりません。
戦後与えられた法律制度ではなく、日本人が自ら考え、作りあげた法律制度に脱皮運用する時代が来ています。一刻も早く脱皮を!
都市計画もまさに脱皮しないと街が滅びますよ!?

調亮

青臭い意見を!!

 暑い夏の日が続いています。各家庭、各企業、各店舗でも冷房がガンガンかけられている事と思います。もう冷房がないと夏を乗り切れない人も多いのではないかと思います。私はあまり冷房がなくても大丈夫人間で、今夏も家では全く冷房なしで平気でしたし、会社の2階の私の部屋は極力冷房をつけないようにしています。でもそんな人は最近段々と少なくなってきているようで、私の娘なんかも親父って変っているなあと思っているのかもしれません。
 何故この夏の話を長々としているのかと言うと、この暑さは異常気象によるのではないかと皆さん程度の差はあれ薄々感じられているのではないかと思うからです。人間の活動による自然破壊、炭酸ガスの排出による地球の温暖化がもろに表われてきているのではないかということです。皆さんが薄々感じているにしろ私たちはそれに対して何かをしよう、生活を慎もう、車のアイドリングを止めよう、物を燃やすのを止めよう等々の活動が見られるかというと、殆んど全くと言って良い程見られません。そして海外では資源を奪い合い、考え方や宗教の違いによって戦争をし、地球資源を掘り起こし、消費を続けています。しかもこの消費生活を今の日本人は謳歌しています。その上今は景気が悪い、もっと、もっとという具合に求め続けています。
 こんな社会が永く続くのでしょうか?私は長く続くシステムにはなっていないと思います。消費型で人類(?)の財産を食い潰していくシステムだと思います。時間が経過すれば経過する程空気が汚染され、水が汚染され、炭酸ガスも溜まっていきます。オゾン層が破壊され、紫外線が年々強くなって、カエルやトンボの生物も年々いなくなる、こんな社会に、年金のデーターが無くなっていたとか、そのせいで、ある政党が後退してある政党が躍進したとか、私にはノンビリしている感が否めません。隣が火事になっているのにその傍らで子供たちが平和に遊んでいる、この図が今の社会ではないかと思います。しかし、皆がそれで良いと思っているのだからそれで良いじゃないか、これが民主主義だと皆思っているのかもしれません。でも本当にこれで良いのでしょうか? 先人がこんな事を言っています。「民主政治は愚民政治になりやすい。愚民政治はムード万能の政治である。ムードというものは瞬間の感覚に頼り、永続的な計画を見失い易い」と。まさに今の日本の状況を言い得ていると思います。民主政体は皆が考え、皆が行動して皆でやっていきます。皆のレベルが高ければ良いのですが、皆が低いと低い所に合わせて愚民政治になってしまうと思います。
 今私たちは年金問題は当たり前で、もっと違う環境の問題、都市計画の問題、法律の問題を含む循環対応型の社会に変革を遂げねばならない時代にきていると思います。真剣に考え行動する、ギリギリのところにいる事を意識しなければならないと思います。
 何を青臭い事を・・・。といつも言われますが、青臭いでしょうか?        
調亮

追記 冷房をかけすぎる人はどうも夏バテをするようです。私の家にホームステイをしたある外国の方が、日本に長く住んでいて、故郷へ帰ると御腹をこわすと言って苦笑いしていました。あまりに衛生的な生活も、恵まれすぎた生活はとかく人を弱くするという見本かもしれません・・・。

真の街づくり

 今街づくりとか中心市街地活性化等の活動が盛んに行われています。皆様ボランティアや仕事に一生懸命活動されています。
 しかしその活動の内容が、どうも一本筋がずれているように感じられます。どうずれているかと言いますと、今の街づくりや活性化はどのように多くの人を集めて、何をどのように沢山売ろうかというところに活動目的があるように思われてなりません。本当の活動目的はそうなのでしょうか?
 今私たちの周りから、とんぼ・セミ・ドジョウ・蝶・蚊・蝿・ホタルetcの小動物、虫等が急速にいなくなってきています。私の子供の頃は田圃にはイナゴがいっぱい、蛇のあの不気味な動き、夜になればホタルの光でいっぱい、カエルの合唱が耳にうるさく、そして私たちは彼らをもてあそんだり、殺したりして遊んだものです。
 でも私たちが殺生をした為にこの虫たちや動物たちがいなくなったのでしょか?いや違うと思います。やはり合理化された農業によって直接的には農薬によって、私たちがかつての子供たちのした何億倍もの殺生が為されたと思います。その結果、私たちの周りからとんぼセミ・カエル・蛇etcを消滅させ、私たち人間だけが食い物も豊かになり、栄えています。
 でも本当にそれで豊かなのでしょうか?私たちは子供時代に虫やカエルと戯れ、それらを傷つけたり、殺したりする中で痛みを知り、情けを知り、大人として成長してこれたのではないかと思います。今の無機質な子供たちの事件や大人になりきれない人の事件は、この虫や小動物がいなくなり彼らと戯れることができなくなった結果ではないかと思うのです。蝶がいなくて受粉できなくなったとかミツバチが生きていけなくなったとかの情報も飛び交っていますが、本当に虫や動物がいなくなってしまって良いのでしょうか、そんな街づくりで良いのでしょうか。疑問に思います。やはり人と自然が共生できる、否人も自然の一員です。そんな街づくりが求められていると思うのですがいかがでしょうか。
 そういう意味で自然と共生できる小松能美の都市計画こそが日本に先駆け新しく制定されるべきだと思います。もっと開発できるところはできるようにする。開発しないところは絶対しないで残すところを残す。そして10年後100年後の小松能美はどうあるべきかというビジョンを示した都市計画こそが今求められていると思います。
 そして市民みんながそれを考え作り上げていく過程こそが、小松市民の都市計画に対するレベルアップにつながるのではないかと思います。みんなで考え、行動しましょう。

調亮

官庁の裏金作りは犯罪ではないのか?

 最近宮崎県で、県の職員の方達が裏金を作り自分達の運営費として使っていたという報道がなされました。新宮崎県知事が、その裏金作りを無くする事を公約として県の行政に携わってきたのに、完全に無くする事ができなくて困っている風の記事がありました。またその他の県でもこれと同じような事例が見られるという事でした。
 私はこの記事を見て不思議でなりません。今も理解できません。何が?
 この裏金の原資は何かと言いうと、自分達が出し合ったものならば裏金と呼ばれるはずはありませんから、やはりそれは何か経費を水増しして架空の経費を捏造?して作ったものである可能性が大であると思います。
 そうなりますと、これは完全な犯罪でしょう。何故ならその支払主は明らかに公、つまり県なり市であるわけです。この県なり市の経費を水増し、架空計上等で貯めこんだという事になればこれは完全に犯罪です。もし民間で社長がそんな事を発見すれば、即社員はクビ、そして刑事告訴となるわけです。ところがこれが官庁となると話がややこしくなってきます。まず首長がそれを刑事告訴したという話はついぞ聞きませんし、その対応も当事者の意思に任せている風がありません。東国原知事の話を聞いていると悪い習慣がまだ残っていて弱ったものだという雰囲気です。
 そしてその裏金の使途は自分達の飲み食いに使ったとか、誰それの土産?であるとか、殆んど使途不明であるように聞いています。
 でも裏金の捻出が不法であり、その使途が不明であるという事になるとその使途も不法です。いやどうしても運営の為に必要な経費であるという事ならば、それは予算付けをしてその予算に基づいて使うべきであり、監査を受けるべきなのです。でも予算付けをされたという事も監査を受けたという事も聞いたことがありません。こうして一つ一つ挙げてくるともう腹が立って・・・・!こんな気持ちになるのは私だけでしょうか?
 今、国は未曾有の借金地獄に陥り、国民は重税感にあえいでいます。その上もっと増税を、という方向に進みそうなこの時期に裏金というものを官公庁から無くするには、民間に施行している法律に基づいて執行する以外に方法は無いと思われます。いやそれとも官庁には特別な法律があって大丈夫?なんですか。いやそれとも不法を官庁全員でやっているから大丈夫なのですか?
 さあすぐに今まで使った裏金を返却しなさい。そして罪に服してください。そしてただ酒は飲まないで下さい。自分のお金で飲んで下さい。これだけ言っても裏金は無くならないとバカな事を言っていないで、すぐ告訴しなさい!すぐクビにしなさい!リストラするには丁度良い口実ではありませんか。

調亮

今、日本は恵まれすぎている?

最近いろいろな事件が報道されています。そのどれもが、身の毛もよだつような殺伐としたものであり、残酷なものです。それらはどちらかというと加害者の精神に異常を感じるような事件ばかりです。それがマスコミによって報道され、毎回毎回の繰り返しにより視聴者の耳に増幅され、同じような事件が誘発されているような気さえします。
これらの事件に共通する事は、その行為の幼さではないかと思います。10代20代30代の事件もさりながら、50代60代が起こした事件さえもどうも大人になりきっていない人の行為のように思えてしょうがないのです。その原因は何かというと、例えば教育が間違っていたとか、自分の国を自分で守るという気概が大人にも子供にもないことだとか、数えあげればきりがないのではないかと思います。
しかし、その根底にある真の原因は、日本の豊かさにあるのではないかと私は思います。
今、日本はいざなぎ景気を抜く好景気が続いているといわれています。そんな中で国民は多数が高卒どころか大卒です。勉強ができても家が貧しいから上の学校へ行けない、は遠い昔の感があります。今は学問を究める為というよりも、大学へ行かないと恥ずかしいという時代です。その上、余暇をどう過ごすか、自分の時間をどう過ごすかという事で趣味の大流行り、健康志向の大流行りです。挙句の果ては自分が楽しむ為に結婚もしない、子供も持たない、育てない、と世の中逆さまになっています。
こうして見ると豊かさの為に私たちは、私が、俺が、僕が、と自分の事ばかりを追求するようになって、他人の事を顧みられなくなってきたように思えます。
私たちの先人は貧乏で、今日食べる物が無いという苦しみを味わってきました。この苦しみを家族、子供に味わわせたくなくて、一生懸命働いて現在の世の中を作り上げてきました。なるほど今では今日の食べ物が無いという家庭は無くなりましたが、もっと違う物を、もっと何か大切な物を失くしてしまったのかも知れません。それは、武士は食わねど高楊枝というような自負心を持つという事をなくしてしまった結果ではないかと思います。又これは、衣食足りて礼節を知るではなくて、衣食足りてなお礼節を忘れ、昔どこかの党が言っていましたが、もっと!もっと!と欲望の増進、どこまでももっと!もっと!と追求する飢餓地獄へと落ち込んで行っているように思います。だからこれ程恵まれた日本に住みながら、又アジアの各国から出稼ぎに来られるような日本に住みながら、充足感というか満足感が今の日本人にはないのではないかと思います。
私はこのコーナーで、今は景気が良いのだ、これからはどんどん不景気になっていくと言ってきました。今は景気が良くて実は非常に恵まれているのだという現実があるにもかかわらず、その実感がありません。それでこの恵まれた日本が今後もこのままの状態を維持できるのかといえば、残念ながら疑問符を付けなければならないと思います。つまり今の状況が最高だという事になる訳です。
この最高の日本で、将来の事を考えないで生活を謳歌していて良いのでしょうか。このツケはもうすぐ回ってきそうですね。もう回ってき始めているって?そうですね、最近の事件がそうだよと言われればそうなのかも…
もう私たちはこの事を真剣に考えなければならない時期にきているのかも知れません。豊かさが人間をダメにしているのは本当でしょうか?

調亮

わからなければそれで良いの風潮

 最近わからなければそれで良いという風潮が特に強いように思われます。直近の例で言えば、志賀原発の臨界事故の報告であり、不二家の期限切れ食材を使った製品作りであり、西武ライオンズの食費補助のドラフト破り等数え上げれば限がありません。それは大企業の氷山の一角で、もっと小さい事でわからなければ‥と見過ごされている事が多発しているのではないかと思われます。経営のトップが申し訳ありませんでした、と頭を下げているのを見てもまたか、ぐらいにしか思わなくなりました。
 私は、特に北陸電力の臨界事故隠しは三つの問題を内包していると思います。
 まず第一は、事故を起こした原因です。これは技術的な問題です。対処としては技術力でカバーし、カバー仕切れない場合は廃止しなければならないと思います。
 その次には、この事故を隠蔽しようとした問題です。この問題は組織の問題です。この組織が、隠し通せればそれで良いという体質になっているとしたらこれは大変です。何故なら、これからも常に出てくる可能性があるからです。これは企業の体質、理念の問題であり、その他の事でも都合の悪い事は臭いものには蓋式にやってきたはずで、だとしたらまだまだこれからも‥‥と心配です。
 そして第三に問題なのは、検査をしているのに八年もの間その事実がわからなかったということです。これは検査をする側、つまりチェック機能に大きな問題があるのです。にも係わらず、こちらの責任には目を瞑り、北陸電力のみを責めているだけなのです。私はわからなければ何をしても良いという今の風潮の中で、企業が自主的にコンプライアンスを推進する事が無理ならば、それをチェックする機関が必要だと思います。しかし、そのチェック機関にチェック機能がないとしたら何をか謂わんやです。
 今の世の中はそういう面において非常に卑怯な人間を育てていると思います。見つからなければ何をしても良いという、この風潮が生まれたのは、知のみを重視し徳を軽んじてきた教育の悪い面が露呈してきたとしか思えません。
 私は中学生の時、岩本又次校長が朝礼で言われた言葉が今も忘れられません。それは、悪事をしてもすぐにばれますよ、何故ならその悪事は我知る、君知る、天知る、地知ると四者も知っているのだから。必ず悪事は現れますよという言葉でした。しかし今私たちは天を敬っているでしょうか、地を敬っているでしょうか。そんな教育をしているのでしょうか。人に迷惑をかける事は自分に迷惑をかける事、自分の嫌な事は他人の嫌な事であるという事を教えているのでしょうか。大学の入試にそんな問題が出たという事は聞いた事がありません。教育とは知を求め徳を積む事こそが必要です。安部首相の教育改革に期待します。
 又チェック機能の問題は社会のシステムの問題です。自分を律する事ができない体質ならば他人がそれをチェックする。その能力こそが必要なのにそのチェック者を当事者が指名するシステムこそが問題だと思います。そんな社会システムが今の世の中、行政を筆頭にもう目白押しです。利害のない第三者をチェック機能者として指名する、そんな社会がシステマチックに運営できるような人を育てる事こそが必要だと思います。
 わからなければ何をしても良いという風潮はジワジワと国を滅ぼしますよ。

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