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サンサンコーナー

調亮が考えたこと

 アメリカ発サブプライムローン問題は、世界的な金融危機を誘発し、株価の暴落、円高、ドル安(安い)と進み実体経済を直撃し、油の価格を下げ、鉄の価格を下げ、近いところでは地元の小松製作所のブルの売れ行きを止め、空前の忙しさを誇っていたさしもの小松グループも生産調整の段階に入ってきました。くわえて毎日のマスコミ報道が毎回毎回買い控えをするという消費者の声を伝えることによってドンドン消費者マインドが冷え込み、物が売れなくなって実体経済がますます悪くなっているというのが今の状況です。
 でもよく考えてみると、アメリカのサブプライムローンは世界中至る所からアメリカにお金を集め、アメリカの景気を下支えしていたわけです。アメリカ全体を考えてみれば、随分と世界中のお金がアメリカに集中したわけでアメリカは全然損をしていないというのが私の考えです。バブルを経験した日本人から見れば、住宅ローン自身は売り出した時から殆んど不良債権となることは解りきっていました。にもかかわらず、再度引っかかったというのは不動産の証券化という魔術に目をくらまされ、間接的にリーマンとかの超一流企業というオブラートに包まれた結果、安全な投資だと錯覚して再度不良債権を大量に掴まされることとなり、今の不景気を招いているわけなのです。私は当初、これは実体経済にあまり影響はないだろうなと思っていたのですが、この金融のシステムはかなり実体経済に根深く浸透していて、影響は思っていた以上に大きいものでした。油の価格が実体の売買より二十数倍も相場で動き、実体から離れた高さになり、今その相場は実体に戻りつつあり、株価はその会社の業績にあまり関係なく(実体とはかけ離れて)変化し、それに一喜一憂する。これは一体何なのでしょう。我々はいつからこのような金融システムというか、投資システムというか相場の中で生きるようになったのでしょう。実体からかけ離れてしまったのでしょう。
 やはり私達は、このような架空のシステムではなく、実体の中に生きる事こそが今必要なのではないでしょうか?
 もう一度足元を見つめ直して必要なものを生産し、必要なものを売買し、必要なものを消費する経済の原点に帰る必要があるのではないかと思います。「経世済民」こそが私達の原点なのではないかと考えるのですが…!

調亮

リスクとヘッジPartⅩ 資産が死産に‼

広辞苑で、資産を繰ってみますと「現に人や団体が保有する土地・建物・金銭・債権・株式等の積極財産」と書かれています。
私達人間が、一生懸命働いて築いてきたのが資産なのです。「あの家はおやけや」とか、「たかもちである」とか言われるのは通常資産家と言れる家なのです。そしてその資産に対して、所有者が亡くなると相続が発生し、子供たちが相続し相続税が発生する、というのが今迄の図式であったと思います。
しかし、今やその図式が変ってきているように思います。どう変わってきているのかと言いますと、資産が積極財産ではなくなってきているように思われるのです。どういう意味かと言いますと、今迄大きな資産だと思われていた土地や建物の性格が変わってきているということです。
今迄土地とか建物には大きな価値があり、それを使うこと、又は売ることにより代金としてお金がもらえました。それ故親が死んだ時には兄弟姉妹が喧嘩をしてまで、相続してきたのです。
でも最近都会の相続人は、山とか田んぼとか家は要らないから現金をほしいと主張し始めております。それは、何故かと言いますと、山はもう殆んど売れない、買う人がいない、田んぼは自分が耕作したくない、家は自分が帰って住みたくない、という具合に市場性が薄くなってきているのと、使用の価値もなくなって来ているからなのです。特に人口希薄地帯では、その傾向が強いようです。その上、少子高齢化社会を迎え、人口が減少していく中で資産的価値がどんどん値下がりしていっているのです。その上、この土地や建物には非常に高い(と私は思っているのですが)固定資産税が課されるのです。この固定資産税の基礎となる評価が実際の売買価値(時価)より高いという不思議によって固定資産税の課税が成されているのです。
という事は、極端な言い方をすれば、売るに売れない、貸すに貸せない不動産に固定資産税という費用負担だけが発生する資産、と成りつつあるのです。それを私は資産の死産化と言っているのです。
そうなのです。資産は使用価値、利用価値が無くなって来ると死産になるという事なのです。このように考えてみますと、皆様の大事な資産の中に死産が紛れ込んではいませんか?
いや、全部が死産ですって?そうしますと固定資産という経費を、一生懸命働いて支払っている状態で何の為の資産か、と考えされられませんか?
今は資産の保有の時代から利用の時代であるという事は、このコーナーで再三言ってきていることですが、利用できない資産はまさに死産となり皆様の生活を圧迫し始めているのです。この死産をいかに有効に使用・利用していくかは、私達不動産やさんの出番なのです。この死産は大きいリスクを持っているということであり、このヘッジを私達に相談されるのも一考ではないかと思います。
今全ての資産が死産であるという事ではなく、人が集まる所は、より利用価値があり、その資産その資産で判断する必要があるという事なのです。(勿論山や田んぼに利用価値がある場合もあります)一家に一軒の不動産顧問を!! というのが清水不動産サービスのモットーです。是非、ご相談を!
私たちは安心を売ります。

調亮

リスクとヘッジ partⅨ

 今小松の街中は道路工事で混雑しています。市役所の前、空港軽海線の土居原から浜田・下牧、その他色々な所で道路拡幅工事をしています。これは小松の都市計画に基づき施行されている訳です。多額のお金と労力と市民の迷惑を与えつつ工事をしています。
 私はこのサンサンコーナーで再三にわたり、小松の都市計画は将来の小松のあるべき姿を目指していない、これを守っていったら一体何ができるのか誰も解っていないという摩訶不思議な都市計画であると指摘しています。 何が摩訶不思議なのか具体例をあげてみましょう。今空港軽海線は、その住民、企業、商店等の立ち退きが、小松琴平神社を除いてほぼ完了したようです。この立ち退きには莫大な資金を使っています。まず、市街の住民を殆んど郊外へ立ち退かせ、街中から人を減らしています。この事が都市計画の施行に基づいて成されている事です。これがまず第一の摩訶不思議です。
 次にこの空港軽海線の道路の広さです。20mもありそうです。これは南北に長い小松の町を東西に道路を通す事によって真二つに割ってしまう事です。これは人口11万弱の小松を二つの町に分割する事に匹敵する悪政だと思います。20mもの大きな幅の道路はそこを渡るのに非常な危険を伴います。ましてや子供やお年寄りに対しては、殆んど単独で渡るのが怖いくらいです。誰か付き添いが必要かもしれません。そして道路、特に車道が広くなる事によって車のスピードがアップすると考えられる事です。時速30kmで歩行者をはねた時の死亡率は5%ぐらいらしいのですが60kmだと死亡率は85%ぐらいになるそうです。
 あの広さの道路が完成したらと思うとぞっとするのは私だけでしょうか。私達は車にも乗り、町の歩行者でもあるという事は加害者であり被害者でもあるという事です。
 私は都市計画を施行していく事によって町を壊し、人が住みにくくなっていくというところに大きな問題があると思うのです。もっと都市計画を真剣に考え都市化をどうするか、道路をどうするか、また道路一つとっても、歩く為の道路なのか車の為の道路なのか、その考え方ひとつで道路の形態が大きく変ると思います。さらに公園はどうするのか、環境の問題はどうするのか、街中の活性化はどうするのか、コンパクトシティーはどうするのか、行政のサービスはどうするのか、インフラはどう整備するのかその他色々な事をきめ細かに計画してこそ都市計画なのであって、今の都市計画は本当にひどく、市民を取り締まるだけで、このまま進めて行ったらいったい何ができるのか、人々が住みやすくなるのかといえば全然違うのではないかとと思います。
 今この都市計画を改革改善しないと、小松市民は将来大きなリスクを負担しなければならないと思います。早くヘッジしましょう。その為には市民が目覚め(?)、都市計画の勉強をしなければなりません。知らない人が名誉職でやっていてはいけないのです。無知なあなたが町を壊し、ダメにしていっているのです。

調亮

リスクとヘッジpartⅧ 競争の原理

 日本の経済は戦後、競争の原理によって目覚ましく発展してきました。教育も競争の原理の導入により、100点満点の何点取ったから優秀である、という事で評価され東大を筆頭にランク付けされ、その大学の出身者は生涯にわたり優秀であると評価されます。ランクトップに位置づけられる東大出身者は、官僚になり政治家へと転身し、その次のランクの人は一流企業へ、その次の人はその次のランクの企業へ、そして下の方のランクの人は中小零細企業へと行き、日本国の経済の基礎を支えてきました。そしてこの競争の原理は今も脈々と引き継がれ、これからも続いていくでしょう。世界的に見てもこの競争の原理に各国が巻き込まれています。そして低開発国も遅ればせながらこの競争の原理に参加して世界中で凄まじい競争の原理が働いています。
 世界中が、地球上の全ての国がこの競争の原理で動き出しますと、我々は非常に大きな影響を被る事になります。それは環境問題です。なぜかと言いますと、競争の原理に原因があるのです。その競争の原理は他よりもより速く、より良く、より安価に人々が求めている物を提供しなければなりません。その為により安価に資源を購入し、より安価な人的資源を使って製作し、より安く顧客のもとへ届けなければなりません。その為にその国、その企業はより優秀な人材を低コストで使い、より合理化し、無駄遣いを無くさねばなりません。その無駄遣いが問題なのです。
 例えば銅の採掘を例に取れば、今まで銅は銅鉱石を掘り出し、それを溶鉱炉で溶かし取り出していました。その時にその鉱山は掘りっ放し、排水は垂れ流しでガスは発散しっ放しという具合でした。だから山は禿山、川は猛毒で魚も住めず、下流域の農作物は汚染という具合で、尾小屋銅山の近郊である小松の人々にとっては他人事ではない状況でした。
 このような方法で銅が採掘されていたのですが、そのような垂れ流し、ガスの発散のしっ放しは許されない時代になってきたのです。
 今は銅の生産は一切の公害を出さないで採掘しないと、その国で許可されなくなってきています。という事はその事が全てコストにはね返ってくるという事なのです。その為に競争の原理から外れてきているのです。その結果、金・プラチナ・鋼・銅etc.の金属マテリアルの高騰につながっている訳です。こうして見てきますとマテリアルの高騰は予想された事でもあります。私も銅を100tくらい買っておけばよかった…。でも私がここで言いたいのは、そんな事ではなく、世界を覆いつくしている競争の原理が環境という問題をかかえたことにより、少しずつ変化してきているのではないか、否、変化せざるを得ない状況に置かれ始めているように思われるのです。つまり競争の原理のリスクが出始めているように思われるのです。そしてこのリスクを回避しなければ人類の滅亡につながるのではと危惧されるのです。紙面が尽きてきたので続きは次回にまわしたいと思います。

調亮

リスクとヘッジPartⅦ

 最近はストレスが増えてきて現代人の3割強の人がストレス性障害を抱えていると言っても過言ではないそうです。最近の数多くの無差別殺人事件を見ても、まさにストレス障害以外の何ものでもないと思われます。それ程現代人はストレスが溜まっているのです。
 さて、このストレスとは一体何なのでしょうか?カタカナ語辞典によると、外傷や精神的ショック等の刺激に対する精神・生体の防衛反応、俗に精神的緊張をいう。とあり、医学的にはひずみ、歪み、適応エネルギーとあり、身体がエネルギーを作り出していくメカニズムであると言われています。又友人医師によると、ストレスには前向きなユーズストレスと後ろ向きなディストレスの二種類あるそうです。
 こうした解釈を鑑みるとストレスというのは私達が思っている程には悪いものではなく、又特別な人にのみ発生するものでもなく、生きていく上で普通の人に常に発生するものであると思われます。特に向上心の強い人は常にストレスを持ち、それをエネルギーに変えて向上していく事が必要なので恒常的にストレスが内包されている状態にあると言えます。
 このストレスを発散する為に人それぞれが自分にあった対処法をとっていると思います。ある者は酒を飲んでカラオケでヘタな(?)歌をうたって発散し、ある者はスポーツをすることにより、ある者は読書、マージャン等の娯楽にうつつを抜かし、またある者は一人静かに自然の中でくつろぎ…等々色々の方法でストレスを解消しているつもりになっています。でもストレスは、他の事で紛らわす事によって解消するのでしょうか?
 先程の辞典によると、ストレスとは身体がエネルギーを作り出していくメカニズムであると記してありました。それならば、ストレスはそのストレスの発生原因に向かって常にエネルギーを燃やして対抗、対処していかねばその解消はあり得ないのではないかと思います。
 今地位の向上を目指している人は、地位の向上無しにストレスは解消しないし、そのストレスを解消する為に常に自分を研磨し、研鑽し努力する事によってしかこのストレスを発散する方法はあり得ないと思います。
 又事業の拡大を目指すものは、事業が拡大されない限りストレスが発散される事はあり得ないと思います。その発散の為に経済動向を知り、専門知識を学び、人間性を磨き、世の中にアピールし、資金繰りをし、あらゆる経営努力をすることによってしかこの人のストレスは発散されないと思います。そう思って無差別殺人を起こす通り魔達の言を聞いていると、ストレスが溜まり、そのストレスの発散の為に少しはエネルギー化していますが、ほとんど努力する事なく挫折して、そのストレスのやり場を全て関係の無い人を傷つけるか、自分を傷つけるという方向に向けているのではないかと思います。
 現代社会は昔の、殺さねば殺されるという時代とは違ってとても平和です。その平和も自分自身で守っているのではなく、国や公共が守ってくれるという安心感の中で生きているので、ストレス発散の場所を間違えたり、エネルギーを燃やす対象を間違えたりしているのではないかと思います。
 私達はその無償で受けたリスクをストレス障害でヘッジしているのかもしれません。でも通り魔達に殺された人達はそのストレスをエネルギー化して努力していた素晴しい人達だったかもしれません。そのエネルギー化というのは一時的なものではなく一生涯続けていかねばならない事で、それを止める権利は誰にもないはずです。そして私自身のエネルギーも一生涯を全うして燃やし続けなければならないと思っているのです。
 ストレスは決して悪ではなく使い方で悪にも善にもなるのです。そして誰にでもあり、誰もそれから逃れる事はできないのです!!

調亮

リスクとヘッジPartⅥ 法律が罪をつくる

 最近賞味期限の改竄、使い回し、生産地の偽り表示等が新聞、テレビを賑わせています。
 その時の経営者の記者会見を見ていますと、まず最初は私は知らなかった、あれは社員が勝手にやった事だから私の責任ではないと言い逃れ、次にどうしても逃れられないと分かった時に「誠に申し訳ありませんでした」と平謝りに謝る。これがパターン化しているように思います。
 どうして同じような賞味期限の改竄等が行われるのか、私には理解できなかったのですが、最近ちょっと気付いた事があります。それは、その賞味期限の改竄によって誰も被害を受けていないという事です。その事によって、身体の調子が悪くなったとか、お腹が痛くなったとかの被害が殆んど無いということなのです。
 という事は、賞味期限というのは一体どういうものなのか、どういう基準で決められているのだろうか、又それは現実の世の中に合っているのだろうか?と、大きな疑問が湧いてきます。
 そしてその経営者は、実際にはまだまだ使えるという事が分かっているばっかりに、改竄、使い回しを日常的にやってきて、そして他社がマスコミで取り上げられるのを見ても「他山の石」とする事もできずに、ズルズルと暴露されるまで続けてきているのではないかと思います。
 では現状と合っていない賞味期限を法律で決めるという事は一体どういう事なのでしょう。自然界では人智の及ばない事がいっぱいあります。例えば物が腐るという事はとても素晴しい事です。日本の食文化も腐りにあると言っても過言ではない程で、漬物・お酒・納豆・味噌等々いろいろです。それは適度に腐らせ、適当な頃合いで食べるという食文化なのです。その腐りは保存状態によっても随分違い、風通しの良い冷たいところは腐りにくいし、暑くて湿気のある所はより腐り易いのです。だから同じ食べ物でも保存によって随分差が出てくるのです。
 それを一律に法律で規定しようとすると法律の施行者の立場に立てば、より安全な、よりリスクの少ない方を選択するのは当たり前のことです。だから絶対大丈夫な食べ物を期限切れでどんどん捨ててごみの山を築いている訳です。 それを勿体ないと思って使った人が罪になり、ごみの山を築いた人が正直な人になる訳です。でももうしばらくすると、ごみの山を築いた人が罪になり、勿体ないと使った人が正直者と言われる時代が来るかも?しれませんね。
 私は賞味期限は無くても生産日のみを表示し、何日で終わるというような期限はつけない方がより現実に見合っているように思います。これからの時代は食糧不足の時代に突入です。そんな時にまだ食べられる物を捨てるなんて・・・。悪法も法です。でも売る為には何でも有りという考え方はどうも経営者の資質の問題かもしれません。まして産地の誤魔化しなんて愚の骨頂です。
 法律は社会を運営する為に是非必要です。でも社会に馴染まない法律、時代に合わなくなった法律は常に改正していかなくては社会が澱んでしまいます。タイムリーな法、制定、改正こそが求められます。これは国民のレベルによって大きく左右されるのかもしれません。そして住みにくくなるか、住みやすくなるかはそれにかかっているのかもしれません。

調亮

リスクとヘッジ partⅴ

 日本の人口の三分の一が三大都市圏に集中する異常な時代となっています。日本の有史以来、人口がこんなに一部の地域に集中する時代があったでしょうか?なぜこんなに一極集中するのでしょうか?人の集まる所は経済が活性化するからでしょうか?人間の心理として人が沢山いれば何か食う事に困らないだろう、何か仕事にありつけるだろうと寄り集まる習性があるのでしょうか?
 しかしこの人口の集中にはいろいろな弊害があると思います。まず自然の破壊です。今や東京において緑というものは殆んどなくなり、建物は高層化しビル風が起こり、ヒートアイランド現象が起き、空気が水が汚染されてきています。そして食料自給率40%という異常事態を招いています。
 今大都市では自給自足ができなくなってきています。特に日本では食料は外国からの輸入に頼り、食料をお金で買って成り立っています。江戸時代の江戸の町も100万人の人口がいた世界有数の都市でした。やはり食料の自給ができなくて全国から食料を調達して江戸の町は成り立っていました。しかしその食料の供給は日本国内で賄われていました。現在のように輸入には頼っていなかったのです。
 今世界の人口は90億を超えようとしています。そんな中で環境破壊による異常気象が続き、食料の不足、危機が予測されています。現に小麦等の食料価格が異常に値上りしてきています。食料が量的にある内は値上げで済みますが、これが量的に不足してきた場合はどうなるのでしょう。背筋が凍りますね。
 私はもう歳だから関係ないよと言われるかもしれませんが、確実に我子、我孫にその影響が及ぶ事は間違いのないことなのです。そうなのです。そのリスクは自分たちに対してではなく子孫に降りかかってくるのです。
 そのリスクをヘッジするには今我々が行動を起こさなければならないのです。この人口の集中を起こしているのは何故か、我々は深く考えねばなりません。
 江戸時代の日本の村、町の殆んどは自給自足経済で自分の所で生産し消費しそして再生産という循環を繰り返していたのです。それは永続性社会の見本のようなものです。今でも大都市以外の所はその良さがまだ残されているように思えるのですが、それもどんどん破壊消滅していっているように思えます。
 それは何故か?私にはそれは日本の都市計画にあると思えるのです。昭和50年に「都市計画法」という法律が国で制定され、全国一律の都市がつくられるようになったのです。私達の小松も例外ではありませんでした。全国一律の考え方で小松の都市計画が成され、それが30数年にわたり実行されてきているのです。それは人口の差はあれ、各地域の特質、特徴を失わせしめ、全国に同じような都市をつくることになってきたのです。それが大きい都市により人口を集中させる大きな要因になっているのです。何故なら同じようなものなら大きなものが常に強いからです。
 江戸時代の前田家は金沢という都市、小松という都市を造り、地方色(地元ではそうは思っていませんが)豊かな都市を造り自給自足の経営をしてきたのです。金沢の城下と萩の城下、それぞれが特徴を持ち、そこに生きる人も他国人かと思うほど個性を持ち、その地域地域の人々はプライドを持ち、おらが国さの意識がとても強く地方の分権が進んでいたのです。それが全国一律の都市計画により、どこでも同じような都市計画をする事により地域の特徴が薄れてきているのです。その事が地方を弱め大都市を強める一因となっているように思えます。もしそうだとしたら、国の誤った政策によって国を弱めている。これは大変な事なのです。
 地方は早く目覚めて地方独自の個性を発揮しないと我々の子孫に対して大変なリスクを残す事になるのではないかと危惧されます。
 小松独自で、自分自身で考えましょう。何故なら、小松の事は小松の人が一番良く知っているのだから・・・。

調亮

リスクとヘッジ PartⅣ

 日本では、戦争が終り62年が経過しました。
 私達は62年の間も平和を享受してきた訳です。61歳の私にとって、とても素晴しい事であると同時にとても恵まれ幸せな事であったと思います。
 しかしこの62年という長期間の平和に慣れ親しんできた結果、この平和というものが当たり前、当然の状態であるという意識が頭をもたげ始めているように思われます。その傾向は私達より年下の人達、私達の子供世代により強く感じられます。その結果、平和というものは守るべきものではなく当たり前にあるものと勘違いし、いろいろ弊害が出てきているように思います。
 弊害の第一は自分の身を自分で守らなくなってしまうのではないか、危険に対してそれを避ける感性、いわゆる動物的勘がどんどん鈍くなり、喪失してしまうのではないかと思います。さらに自分で身を守る防御のことを必要ないと考え、防御しなくなるような気がします。だから最近の変質的な殺人事件をみても、実に脆く殺されているように思います。又殺人を犯す側も、殺人とはどういう事でどんな影響があり、そのあと自分はどういう状態になるかという事を深く考えないで犯しているように思います。
 弊害の第二としては、何もする事がない無気力人間を生み出しているのではないかということです。人は食えない時には食う為に働きますが、食えるようになると働く目的を失い、何の為に働いているのか解らなくなる。人生は何の為にあるのかという人生最大の悩みが大きくのしかかり、憂鬱に陥り心が病んでしまう人も出てきます。危険がいっぱいあり、生き延びる事が困難な時には考えもしなかった事が平和な時にそれが出てくるという事はどういう事なのでしょう。平和というものはそういうリスクを含んでいるのでしょうか?平和は与えられるものではなくて、作り守り続けていかなければならないものなのでしょうか?全ての人間が平和を望んでいるわけではなくて騒乱を好む(?)目指す(?)人間もいるのでしょうか?
 今日本人は戦後62年という長いというか短いというか、この年月に平和ボケしてしまって、世の中には良い人、平和を望む人しかいないと思い始めているのではないかと思えます。でも人類の歴史の中で何千年と平和を維持してきた国は無く、せいぜいが200年~300年が最長です。あとは殆んどが争いの歴史の繰り返しで、その点において徳川時代というのは日本の歴史の中で特殊な時代であったのかもしれません。しかしこの徳川時代でさえ、自分の国は自分で守ってきていたのです。
 今の日本人は、他人に自分の国を守ってもらう、変人からは警察に守ってもらう自力救済を禁じられた国なのです。この国が今、変人による無機質な無差別犯罪に侵され、薄気味悪く感じながらもどうする事もできないでいるのです。
 私は今、このリスクをヘッジする考え、国民が考える素養を持つ事、教育問題を真剣に考える時が来ているのではないかと思います。平和がリスクを生み出すなんて考えもしなかったのにリスクを生み出している。この現実を見ると、何をするにもリスクがあり、そのリスクを如何に最小限に留め、効果を最大に出すか真剣に考える時期に来ていると思います。何も行動しなければリスクは無いと思っていましたが、何もしない事が最大のリスクを被る時代になってきたのかもしれません。世の中にリスクの無い事なんてないのかもしれません・・・?

調亮

リスクとヘッジ partⅢ

最近塩野七生著の「ローマ人の物語」を読んでいます。全15巻の長編ですが、とても読み応えがありおもしろいです。私は最初塩野七生さんをナナオさんで男だと思っていました。何故なら、女性にしては珍しい程歴史観にあふれ、分析力が鋭く、とても女性とは思えなかったのです。女性はどちらかというと直感力にすぐれ、情緒的になってしまうというので私の偏見であるかもしれませんが…。
 そのローマが千年の長きにわたって地中海を内海とする程の広大な領地を治めてこられたのは何故か?という疑問が私の中学時代からの疑問であったからです。この「ローマ人の物語」を読んで永年の謎は氷解しました。
 それは一言で言えば危機と管理のシステムができていた事、そしてそのシステムは陳腐化していくので常にメンテナンスすべきものであるととらえ、地道にそれを繰り返してきたところに大きな原因があることが解ったのです。まず政治システムは最初は王政、次に共和制、それから帝政へと移行しています。
 今の日本の民主主義的思考から言えば、何故王政から共和制に移り、共和制からどうして帝政に移ったのだろうかと疑問に思われるでしょう。元老院と市民集会から成っていた共和制は、今の日本の民主主義にとても似ているように思えます。このシステムがどうして帝政になったのでしょう、いや成らざるを得なかったのでしょう。
 それは広大になった領土の統括システムが共和制では、時間がかかり過ぎて実態にそぐわなくなってきたからでした。一例を上げれば、ライン河沿いのガリアのゴート族が侵入してきた時に、それに対応して将軍を決め、軍団を編成する為に元老院会議、市民会議を開き決議するではあまりにも時間がかかり過ぎ対応ができないからです。又極端な話、今の日銀総裁のように決まらない場合もありうる訳で、その間にガリアのゴート族はどんどんローマの国を荒らし回り、街々を破壊しつくして、住民は老いた者は皆殺しにされ若い者は奴隷としてガリアへ連れて行かれ、街という街は破壊されつくしてしまう状況であったからです。
 共和制のシステムのままではローマは滅びてしまう、とローマ市民は帝政というシステムにメンテナンスをした訳です。
 今の日本の状況は、執行部は人事も行えない。経済が米のサブプライムローンに端を発し大変な危機的状況にあるにも関わらず、(アメリカは次の手を打っているのに)日本は何の手も打てず議論だけというか、本格的な議論らしい議論もせずに徒に時のみを浪費しているという状況です。この状況は、ローマの蛮族の侵入という大変理解し易い状況とは違って、人々の目にはすぐに理解しにくく徐々に徐々にカウンターブローのように影響を与えて来るから始末が悪いのです。今の日本の政治は戦後の日本の生き方としては成功してきたと思いますがこれからの日本の進路の舵をとっていくにはあまりにも時代にあっていないのではないかと思われます。
 そういう意味で私達日本人は、真剣にメンテナンスを考える時期に来ているように思います。シーザーも言っています。「どれ程悪い事例とされている事でも、そもそもの動機は善意によるものであった」と。
 どのような物事も最初は善意によって成されたのであり、最初から悪意を持って成されたものなど無いと。
 そうなのです。今の日本のシステムも最初は良いと思って成されたのであり、そのシステムが時代に合わなくなってきたのであり、そのメンテナンスこそがリスクとヘッジなのです

調亮

リスクとヘッジ PartⅡ

 最近アパート・マンションの建設がとても目立ちます。私達不動産のプロとしても「大丈夫かいな?」と不安意識がよぎります。
 アパート・マンション等の賃貸物件は時を金に変えるという意味で、投資物件としてはとても面白いものでした。時を金に変えるとは、時が経過すればお金になるという事で銀行の金利のようなものです。日曜日もお正月休みも、お盆休みも常に金利を生み続けてくれるのです。
 しかしこれにもリスクはあるのです。銀行にはお金を借りてくれない、いや借りても返してくれないというリスクがあり、アパート・マンション等の賃貸物件にも借りてくれない、借りても家賃を払ってくれないというリスクがある訳です。それで銀行は保証人をとり担保をとってリスクを回避しようとし、アパート・マンション等の賃貸物件は、敷金を預かり、保証人をとりリスクを回避しようとしています。
 しかし最大のリスクは、銀行では借りる人がいない、借りたい人には貸せないということです。賃貸の方は借りる人がいないという事が最大のリスクなのです。このリスクの回避はどのようにしたら良いか?というと大変な難題なのです。
 今、日本は世界でもまれにみる少子高齢化社会に突入しています。この事は人口の減少を招き、ミクロでとらえればアパートに入居する人が減少するということになると思います。という事は、賃貸市場全体としては、入居者の絶対数が足りなくなるということにつながるからです。この事は、アパート等、賃貸物件の空室が多くなるという事なのです。でも今迄は生活習慣の変化によって (この変化は、本当に大変大きな変化だったのですが)世に言う核家族化によって、年寄り家族と若い者家族の別居という形で、世帯数が増加し、アパートを充足していたのです。
 でも、それも限界に来ているように思われます。そんな中で、空室のリスクを回避する最高の方法として、空室を30年間保証しましょうという事を、大手建築会社が打ち出してきました。それがサブリースシステムです。そのサブリースシステムが、アパート・マンションの建設につながり、あちこちで建っています。でも、本当に30年も保証できるのでしょうか。この保証という心地好い言葉で空室というリスクを本当に回避できるのでしょうか?
 それは決してリスクの回避ではなくて、リスクの先延ばしだと私は思います。まずサブリースシステムは決して長期の家賃保証システムでは無いという事です。これは最高裁の判決にも出ています。アパートが満室のときには保証しますが、空室が出たらトンズラ、という図式があるとしたら何の為の保証か?という事になりかねません。それは、空室が出たら保証ではカバーできるはずが無いという事を基本的に理解していないと、リスクのヘッジにはならないということなのです。
 また基本的にその会社が30年存続するかという事も問題になります。やはり原点に返って、アパートも賃貸の経営なので経営者の感性を養って、運営することこそが、本当のリスクヘッジなのではないかと思いますが・・・!

調亮

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