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サンサンコーナー

ハザードを超える人生を歩もう

私は20年前に胃の3分の1を切除してから、食べ過ぎ、早食いが最も辛くなりました。過ぎたるは及ばざるが如し、調度良いが一番良くなってきたように思います。その調度良いとは、「量の問題、早さの問題、タイミングの問題、可も無く不可も無く、少し足りないぐらい」が調度よいです。物余り時代はいつまで続くのでしょうか。片寄りが多く、過多に摂取し身体を壊す、身体の為とサプリメントを飲む、薬の摂取が習慣化して過剰摂取となり、身体の不調を訴える者のなんと多いこと。何でも薬に頼る薬大好き国民の日本人、早期発見という名目で健康診断大好き国民の日本人。

しかし75歳以上の後期高齢者にとって健康診断は本当に必要なのでしょうか。具合が悪くなった場合や、身体に支障がある場合は必要ですが、何も症状がない場合の健康診断は必要かと疑問に思います。たとえ症状の出ていない病根が発見されたとしても、治療はする必要があるのか検討が必要でしょう。薬によって治る程度であれば治療すれば良いのですが、手術となると大ごとです。まして内視鏡ではなく、開腹、除去、切除となれば、身体に大きな負担がかかります。手術や副作用が強い治療は控え目にして、穏やかな治療で、病と共生する気持ちでいるぐらいが良いと思われます。髪が抜けるような抗がん剤治療は、がん細胞はなくなりますが、免疫力が低下して感染症にかかり、結果的に短命に終わる場合があるようです。生きる目標年齢が85歳ぐらいなら…?病気と共生した方がはるかにいいのではないかと思います。一病息災と言うように、持病が一つくらいある方が、無病の人よりも健康に注意し、かえって長生きできるのではないでしょうか。

ことわざに「言葉を慎めば禍なし 食事を節すれば病なし」ともあります。日本人は完璧を求めすぎる。この世の中に完璧などというものはあるのでしょうか?いやないであろう。日本人は潔癖性であるが故に完璧を求め、がんを完全に克服しようとするのか?完璧にがん細胞を切除しようとするのか?がんとどうして共生できないのか?若いとがんの進行は早いと言われていますが、高齢者はどうなのか?そんなに早いとは考えられないのですが、それならば、高齢者と若年者に対する治療法を変えるべきではないでしょうか。

人生100年、その100年を健康に生きられたら最高にしあわせです。その為には身体を常にいたわりながらも、ハザード(障害・障壁・危険因子)をもうけ、そのハザードを常に超える努力が必要だと最近つくづく思います。バリアフリーとは、高齢者や障害者などが社会生活を送る上で障壁となるものを除去し、誰もが快適に暮らせるようにすることです。しかし、その生活こそが、我々人間の能力を退化させる元凶かもしれないと思われます。我々は、ハザードがあればこそ、それに対応しようと努力するので、ハザードの無い人生は、無味乾燥なものとなるのではないかと思います。79歳、これからの人生を意味あるものにし、楽しみたいものです…。

また、話は変わります。

弊社はおかげさまで、8月19日に無事40周年を迎える事ができました。これもひとえに、地域のみなさまのおかげと心より感謝申し上げます。

総合不動産業として、お客様が不動産を活用して、本当の幸せになるためのサービスをさせて頂きます。経営理念は、「先義而後利者栄」(義を先にして利を後にするもの栄える)です。開業当初からの、誠実、迅速、安心を心がけまして社員一同頑張ります。

どうぞ幾久しくご愛顧賜りますようお願い申し上げます。

不動産遊民

都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)

 

人間は何と愚かなのだろう

世の中に良いと思われることは多数あると思われるのに、それを採用しない、無視する、見過ごすことがあります。

私は3年前にお酒を止めました。金沢の片町にある平らな道路で酒に酔っていて、つまずいて転び、その際に右額を3cm程切りました。それ迄は飲酒中によく居眠りをしていたのですが、酒の飲みすぎと食事の不摂生が原因だと後で聞かされました。何はともあれ、家族に言われて、その日から飲酒を止めました。もう、3年ぐらい経過していますが、実に体調が良いのです。「酒は酒毒」と言って、まことに体に悪いのですが、「酒は百薬の長」とも言われています。思い返しますと、酒を習慣的に飲み、止めることができなくなっているようでした。最近では、よく止められたね、少し寂しくないかと逆に聞かれます。私はお酒を止めるということに何の抵抗もなくスパッと止めることができたのですが、周囲の人からすると、その行動が不思議なようで、よく質問されます。私はズルズルと毎日毎日飲み続けることをやめて、特に慢性化、中毒化することだけは避けたい性格なので止めることが出来ました。その一度決めたら曲げない性格も友人たちから不思議がられます。しかし世の中の様々な話を聞くと、アルコールの飲み過ぎは実に弊害が多いように思います。ほとんどの飲酒者が身体を壊していると言っても過言ではないようです。

私はアルコールを止めてから、身体の中に一本筋が通ったようで、飲食中に居眠りすることもなくなり、意識がすっきりし、体調が良くなりました。何か身体がシャキッとした感じで、とても爽快です。ゴルフも少し飛距離が延び、スコアーもアベレージが良くなってきたように思えます。

アルコールを飲む人は血液、特に脳溢血(のういっけつ)、脳梗塞(のうこうそく)類の病を患い、その結果、短命の人が多いようです。また、老化の初期であり、人生の一番大切な時期(特に60歳から75歳ぐらい)に身体に変調をきたしているように思われます。この人生の最期を飾る一番大切な時を、我々はアルコールや煙草等の不摂生によって台無しにしているように思います。この時期こそが人生の仕上げなのではないかと思われます。

私達の一生は何の為にあるのでしょう。引退して子ども達に後を任せればそれで終わりなのでしょうか?私達はこの世に生きた証を示さなければいけないのではないでしょうか?その為には健康な身体と心こそが必要ではないかとつくづく感じます。子どもに迷惑をかけられないとサプリメントや薬に頼る人が多いように思われますが、私は食事・運動・睡眠の摂生こそ今求められているのではないかと思います。自分の人生は自分の意志で切り開きましょう。残された人生を社会とのつながりを積極的にして楽しみ、充実させて終わりたいものです。人生100年時代を健康に生きたいものです。

不動産遊民

都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)

正岡子規を読んで

只今、子規全集(講談社)全25巻中の第21巻782ページを読み終えました。毎朝10ページ程を読み、78日間。第1巻からですと約5年間を毎日非常に楽しく、面白く堪能させてもらっています。正岡子規は慶応3年(1867年)生まれ。現在の東京大学予備科に入学し、新聞記者になります。その人生は俳句の世界で実に充実しておりましたが、明治35年(1902年)36歳で子規庵の4畳半で永眠しました。

病床六尺から、世界観は日本全国、世界、宇宙へと広がっていったように思います。36歳と言えば、まだ若輩で、肉体も精神も成長の途上にある頃だと思います。生涯の間に、俳句を作り、俳諧の様態を改め、江戸時代の芭蕉、蕪村を研究してその作風の批判・批評をし、俳論をまとめ上げ、現代俳句の基礎を造り上げています。結核性脊髄カリエスを患い、体から膿が流れ出ようになっても、その痛みに耐え、読書をし、資料を集め研究し、文学論をまとめ、句会を開いては句を作り、句集を作り、夏目漱石を初めとして寺田寅彦、高浜虚子、河東碧梧桐などの友人達との情報交換、主に手紙、書簡のやりとりの頻繁さは私の想像を絶するものがありました。その手紙のやりとりの面白さ、豊かさはなんとも言えず、この交流によって人間として、お互いに成長していくのを、まざまざと見せられ、人間子規、人間漱石、人間寅彦等が育っていったのかとつくづく思わされます。

日本は現在、人生80年、90年の長寿社会に突入し、私は齢79歳になります。そして物価高とはいえ物はあふれた平和な時代を過ごしています。恵まれた人生を送る中で、私達は満足と言える人生を送っているのでしょうか。何の心配もなく、何もしないで老いるだけ、そんな無意味な人生を送ってはいないでしょうか。寿命は長くなってきましたが、その中身は充実しているのでしょうか?

子規から学べることは、人生の深さと中身の充実とは、その人生の長さではなく我々が何を考え、何を行動するかにかかっているかと思えます。ただ年老いるだけでなく、友人を沢山つくり、色々考え、そして行動する、これが人生を全うするということではないかと思います。政府から指示された通りではなく、人から強制されるのではなく、人まかせにせず、自分で考え、信念を持って行動する、それこそが自分自身の充実した人生を送る方法ではないかと思うのです。65歳、70歳で引退して、何か趣味等があればいいのですが、何もせず、何も考えず日々を過ごすのは、非常に気楽で苦労がないと思われるでしょう。ところがどっこい人生はそんなに甘いものじゃないのです。その反動が認知症、病気等となって出てきているように思われます。

与えられた命を生きるなら元気に楽しく生きましょう。せっかく与えられた寿命ですから…。

「死ぬものと誰も思わず花の春」子規の一句です

不動産遊民

都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)

格差社会

飲みたい時に飲める新鮮な水と、食べたい時に食べられる食糧さえあれば、それ以上に求め文句を言うべきでない、というのが人生の本質と言えるのかもしれません。しかし、それ以上の欲を求めることによって人間同士の争いが起こるとしたら、なんと愚かなことでしょう。人間が仲良く生きていくにはどうすればいいのか?これは我々人間の永遠のテーマではないかと思います。

私達は、毎日働いて生活費を稼ぎ、少しでも節約して貯金をし、将来に備えます。少しでも余裕ができれば富を蓄える、この富がくせ者で、人間の不平等を促進するのかもしれません。だとすれば、今の日本の所得格差の拡大は、富の蓄積の格差の拡大につながり、将来の不平等につながるかもしれません。

今、世界を見れば、アメリカではアメリカン・ドリームと言われ、成功者と一般市民との貧富の差が、どんどん開いています。そして富が富を産み、不労所得がどんどん増え続け、トランプ大統領のような超富裕層が出現し、政治まで壟断しています。

片や、インドでは全国民の約3%の人が富の5割~7割を所有し、多くの人々が路上で生活したり、物乞いをしたりして生活しています。そして富裕層は貧しい人々に施しを与え、不満が爆発しないようにガス抜きをしているのです。富及び収入の差は、時が経てば経つ程増大し、格差がどんどん拡がっていくのです。

冨の拡大は、教育に広がり、資産家はより重厚な教育を受けることができ、知的資産もどんどん増大します。そして知的先進地域へ進出し、世界中の人々、特に社会を牛耳る世界に社交の輪を広げています。

冨の偏りは、格差へと繋がり、各地に身分の差を生じさせ、それが年月を経て、歴史化されると、どんどん格差が拡大し、平等は失われていくのです。

では平等な世界とはどのような世界なのでしょう。そもそも平等とはいったい何なのでしょうか。私たちは平等を頭の中では考えられるような気がします。しかし、現実的には収入や権利が均等にあれば平等なのでしょうか?例えば収入一つとっても平等にするのはとても難しいと思います。まず能力の差がある場合は、収入に差をつけるべきだと思います。また熱心さの違いがあれば収入の差にすべきです。長期間働く人と、そうでない人にも収入の差をつけるべきです。その差によって収入に差が出てきます。でも逆に差がないと平等ではないのです。

私たちは人生に対して意欲を持って歩むのと持たないで歩むのとでは、長い人生、たかだか100年未満の人生ですが、差が出てくるのです。

とすれば、これが千年、何千年と続くと、どんどん格差が広がっていくのです。これに拍車をかけるのが富の蓄積です。これは実にくせ者です。それは何故かというと、富が富を生むからです。特に不動産は富を生みます。世界の富裕層は必ず富を蓄積し、不動産を所有していると言っても過言ではないと思います。その上、賢い人はその富を使って子孫に教育を施します。この教育は人を育て、その人が資産を運用し、どんどん資産を増やしていき、より格差を増大させていきます。ということは、この格差というものは、我々人間にとってなくすことのできない必要悪なのでしょうか。そう考えると、日本社会は比較的平等な社会、身分格差に対して差別のない社会なのかもしれません。私たちは平等な社会を目指しますが、格差社会は、私たちの心の中にこそ芽生えるのかもしれません。

不動産遊民

都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)

学校が壊れるとは

数年前から、学校が壊れるということをよく耳にします。校舎が壊れているという意味ではなく、学校の教師が自信を失い、学生達が一生懸命勉強しなくなったというのが、学校が壊れるという表現になっているのではないかと思います。

その結果、学力は落ち、社会秩序を守れない子ども達で溢れているのが今の状況ではないでしょうか。その子ども達が、子どもを産み、育てると、世の中が壊れてくるのは当たり前のことだと思います。幼児の虐待、殺人、窃盗の増加、その他あらゆる犯罪が増加しているのではないかと想像できます。

安全な国、日本はどこへいったのでしょう。このままでは真面目に働く人が損をし、犯罪者が得をするという社会になっていくのではないかと危惧されます。

この原因はどこにあるのでしょうか。やはり教育方針にも、原因があったのではないかと思います。それは、個性を尊重する、伸ばすという教育です。では個性とは何か。広辞苑によれば、「個人に具わり、他の人とは違う、その個人にしかない性格、性質(individuality)」と意味づけられています。

この個性を教育によって伸ばす必要があるのでしょうか。私は、個性は伸ばす必要がなく、生まれつきその人その人が持っているもので、それを伸ばせば伸ばすほど社会性がなくなっていくという代物であると思っています。その結果、自己中心主義の我がまま人間が生まれ、犯罪に走るという今の日本社会につながっていると思います。

やはり人間は、集団生活をする動物であり、社会を形成して初めて生きられる動物なのです。その動物が人と人との繋がり、人と人との関わりの中で、生きていく為にどうしたら良いか、どう生きるべきかを教育すべきなのです。それこそが教育の本当に目指すべき方向だと思います。人間社会は歴史を積み重ね、その歴史とは失敗の積み重ね、そして、より良い人間社会を作る為に努力してきました。その結果が今の社会なのです。

しかし、個性重視の教育方針によって、社会が壊れているのです。戦後、敗戦による打撃と全体主義への反省からか、偏った教育方針が野放しになってしまったように思えます。個性重視の教育、それは教師が教えられる世界ではないのです。

例えば、現在ドジャースの大谷翔平選手は、普通の教師では教えるのに限界があります。何故なら彼の個性は能力、特に優れた身体能力であるからです。この大谷選手に普通の教師が教えられると思いますか?そのことが、教育現場で教師が悩んでいることなのです。

教育方針として打ち出さなければならないのは、人として最低限守らねばならない社会ルールを、どう守って生きていくべきかということなのです。それは教師があの大谷選手にでも教えられることなのです。ドジャースの大谷選手が人気なのは、強い個性の上に、人としてのルールを身に付けているからだと私は思います。

教育は、社会のルールを教え、そしてその上で、その人の能力をいかに伸ばすかを方針とすべきで、放っておいても出る個性を教育によって磨く必要はないのです。何故なら個性はその人、個人がそれぞれ持っているものだからです。

今の若者たちは、働く場所がないと言って、親の元から羽ばたかないのではなく、世の中に出ても一人の人間として成長しきれない人間を教育してきているからなのです。

教育は原点に戻り、社会のルールを教え、能力を磨く、そんな教育をするべきだと思います。

不動産遊民

都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)

二地域居住の薦め

私は先日、七尾市中島町にある能登演劇堂へ行ってきました。「まつとおね」の観劇です。劇場は昨年元日に起きた能登半島地震の影響で1年以上閉館していたのですが、久しぶりの開演で楽しませてもらいました。劇そのものは史実からずれているような気がして違和感がありましたが、女優のふたり芝居の熱演は見事でした。観劇の後、能登半島地震で被災した和倉温泉へ行ってきました。加賀屋をはじめほとんどの旅館が営業しておらず、のと楽など数軒が営業しているような状態でした。道路は隆起、陥没している状況で、当時の地震のすさまじさが今更ながら蘇ってきました。小松地区は比較的微小な被災で幸いでした。能登の皆様には、心から大変だったと感じ、何と言ったらいいのか、今後の復興を心から祈り、応援したいと思います。

しかし、地震というのは地球の活動で、何十年、何百年のサイクルで起こるものなのです。私の記憶では、マグニチュード7以上の震災の経験はありません。過去の記録でもここ何百年の間、巨大地震は起こっていないのです。という事はあのような巨大地震は、余震はあるかもしれませんが、百年以上はないのではないかと考えられ、必要以上に怯える必要はないと思うのです。逆に怯えなければならないのは、太平洋側の南海トラフではないでしょうか。関東大震災から約100年が経過しています。東京という大都市が一番危険なのではないか?巨大に膨れ上がった都市、食料を自給できない都市、運送で維持している東京こそ怯えなければならないのではないかと思えるのです。巨大化したためにひ弱な都市になった東京、ここに住む人達はどう対処したら良いのでしょう。

最近国土交通省は二地域の居住地域を持つ事を提唱しています。大都市からの脱出は地方しかありません。特に日本海側の北陸は最適だと思われます。東京から飛行機で1時間、新幹線で約3時間の交通アクセスも魅力です。特に小松地区は、災害は比較的少なく、台風等は白山が守ってくれることが多く、白山の懐の中の小松こそ、二地域居住地として最適ではないでしょうか。

小松市は、これから東京の二地域居住地としてインフラを整備していくべきです。その為には小松の都市計画全体を見直し、都市の人の受け入れが重要です。すでに支援制度があり、補助申請の受付も始まっています。

災害は忘れた頃にやってくる、とはいえません。石川県の能登と金沢、小松では、地域差が若干あります。小松は比較的安全なのです。また、能登半島もこれから数百年は巨大地震が起こる可能性は低いと思われます。マグニチュード3とか4の余震はあるかもしれませんが、余震のある方が、エネルギーが溜まらないので比較的安全と思われます。必要以上に恐怖をあおる必要はないのではないか。逆に太平洋側こそが、より可能性が高いと思われます。その為に二地域居住こそが、これからの災害対策の重要な柱となるのではないでしょうか。今後、小松は迎える準備、おもてなしの心の準備を求められるのではないでしょうか。

地震の予知は歴史からも学ぶべきなのです。何年に大地震があった、その何百年後にまた地震があった、その時に津波がここ迄来た、その言い伝えが大切なのです。私達はただ怯えるだけでなく、歴史から見た冷静な判断こそが求められ、防災はそれに基づいて成されるべきなのです。

私は78年間小松に住んでいますが、ほとんど大きい地震を経験していません。日本海は水深が150m程で、水深が3,000mを超える太平洋とは海水量が違うのです。太平洋側と同じ津波が起こる訳がないというのが私の持論です。歴史的に見ても、小松はほとんど津波の経験がないのです。二地域居住には小松市の若き市長に、ぜひとも奮闘していただきたい。都市の人が住み易い小松、災害の少ない小松へ、是非来て小松!!ラブ小松!!

不動産遊民

都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)

 

50代の顔に責任をもて

昔、親から「50代になったら自分の顔に責任をもちなさい。」と言われました。それがどういうことかは、頭から離れない疑問であり、テーマであり続けています。単なる加齢による老化した顔のことではありません。しかし、それが少し解りかけているのです。「人間50年、下天の内を比ぶれば夢幻の如くなり」と人生わずか50年ともいわれました。

「50代の顔」というのは、50年の人生を過ごし、体験して人格を磨いた結果が顔に現われてくるという意味だと私は理解しています。最近は人の顔を見ると、人それぞれのこれまでの人生が顔に現れているのが実感としてわかります。凄まじい人生を送ってきた人の顔はそれが現れます。誠実な人生を送ってきた人の顔は正直さが現れています。人を騙すような人生を送ってきた人の顔、自分の人生に自信をもって生きてきた人の顔、サラリーマン人生を真面目に送ってきた人の顔、それぞれの人がそれぞれの人生の顔を持っていると言っても過言でないと思います。その人生の重みをその顔から少し伺えるようになってきたように思えます。

そして、この思いで1月下旬のフジテレビの社長及び役員の会見の顔ぶれを見ると、50代以上の顔なのに非常に顔が良くないのです。日本のマスコミ大手の経営者の顔とはとても思えず、苦しい決断をしている顔、危機を乗り越えてきた顔ではありませんでした。実に平々凡々な顔で危機対応がなっていないのです。だから11時間にも及ぶ記者会見をしたにもかかわらず、何ら結論を得られたようには思えなかったのです。そして、このゴタゴタは人の記憶が薄れるまで延々と続くでしょう。

この騒ぎは何故起きたのでしょうか。詳細は分かりませんが、トップのトップとしての能力の欠如が第一の原因だと思われます。経営能力が欠けた役員が昇進していき、トップになる。そして50代の顔ができていない上に、ごますり、忖度、おもねる、全体を考え不正を不正と言えない、間違いを正せず、正義の声を上げられない体質を作っていったのではないかと思えます。

大手の会社に入社した頃の社員は希望に燃え、正義感溢れる人達であったと思います。その人達が長い年月をかけて、長い物には巻かれよ、強い者には負けろ、そうでないとサラリーマン人生がやっていけない、そんな人達だらけの組織になってしまった。その証に、このトップの人達の顔が芯の通っていない顔になるのではないかと思えます。

経営者とは、磨き上げ叩き上げられて、経営能力も備えたうえで立身出世していかれる人のことでしょう。今後、社会に通用するためには、真面目に努力し、豊かな人生経験を積んで、人格の形成を成し遂げた経営者が、50代の良い顔を持った人材を抜擢できるような健全な組織こそが必要です。

本物を見分ける力、美しい物を見分ける力、これは日本人が最も苦手とするところです。その為には自分磨きをしなければなりません。若い頃から絶えず、文化・芸術・スポーツ等に励み続けることが大切。そのうえで、社会、経済と広く世界を見、あらゆる物を見据えながら、人を見る力を蓄えていかねばなりません。

最後に物事を解決するのは時間と人なのですから。そういう私も自分の顔は鏡を通してしか見られないのです。自分の顔に責任をもてるかは自分では解らないことです。人生は一瞬の積み重ねで、それが50代の顔をつくり、生涯を通して良い顔になれるよう努力をし、懸命に生きるのみです。

不動産遊民

都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)

小松同窓会に参加して

2025年1月25日(土)にサイエンスヒルズこまつにて小松高校同窓会新年会が催され、300名弱の人達が集い、旧交を温め合いました。私たち17回卒の面々も7名(男性5名、女性2名)が集い、楽しい話に盛り上がりました。

私が若い頃に小松高校同窓会に出席した時は、主賓席よりはるか遠くの席で、主賓席の周りは大先輩方で一杯でした。私たちはいつになったらあの席に座れるのだろう、はるか先のことだろうと思ったのがついこの前のように思えます。今では主賓テーブルの横の席になり、大先輩方はほとんど参加されず私たち17回卒が、その先輩方の位置になっていました。お世話係の49回卒の方々が元気溌溂と運営されている姿を見て、時の流れの早さをつくづく感じました。

今回の出席者の中で最高齢は92歳の方で、旧小松高校校歌「ら小松」を歌う人はお一人だけでした。また、小松中学と小松高等女学校等の校歌はテープが流れており、懐かしい顔ぶれもほとんどいなくなっていました。自分自身も齢78歳と八十路に近づいていることをしみじみと感じました。

講演会の講師は卒業生の角英夫氏で、元NHK専務理事の方でした。講演内容のレベルが高く、実に世界情勢に堪能で解り易く話されており、あっという間の1時間でした。

現在アメリカはトランプ氏が2期目の大統領となり政治を行います。アメリカはどうなるのか、アメリカ国民はどう思っているのか、ただ右往左往するのではなく、それに日本としてどう対応していくべきか、その生の考えが聞ける非常に有意義で、解り易い講演でありました。小松高校同窓生の底力を見た思いです。

ただ、その時に周りのテーブルを見るとほとんどが満席だったのですが、メインテーブルの2テーブルだけは空席で、能美市長お一人のみでした。講演後の懇親会になって来られたのはほとんどが政治家の方々でした。

私は実にもったいないなぁと思いました。このことは常々感じており、政治家こそが聞くべき内容なのに、聞かないということはいつ勉強するのかと思います。何に忙しいのでしょうか。一般の方の中には、政治家よりはるかに勉強し、高い知識や見識を持っている方がたくさんいるように思います。せっかく政治家の方々はハイレベルな人たちと出会う機会や、良い講演を聞く機会があるのにもかかわらず、挨拶だけして帰るため、学ぶ機会を放棄してしまっているようで残念です。

そして、政治家としての年月が経過すると、だんだん中身のない人物になってしまうのではないかと懸念するのは私だけでしょうか?選挙に当選する為には顔を売ることが大事なのは解ります。しかしそれが主になって学ぶことを忘れてはいけないと思います。本業は国民の為に政治をすることなのです。国民の為にいかにどう成すべきか?先見性を持ち、世界観を持った政治家を目指してほしいと思います。色々な人々と交わり、意見を交換し、自分の考えを高めていく努力が今こそ必要だと思います。国民や市民に寄り添い、リードしていく政治家になってほしいのです。

政治は人なり。政治家が人一倍努力して、国を指導していかなければならないのです。

政治家は報酬目的ではいけないのです。常に国はどうあるべきか、知を求め、正しい方向へと導く責任があります。正しい政治の方向とは情勢を理解し、法を変え、制度を変え、世界を知り、先進に学び、システム作りを指導することなのです。

もっともっと学ぶ!交流する、知る「Forecast(フォーキャスト)」が必要です。ぜひ頑張ってほしいと心から思います。

不動産遊民

都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)

謹賀新正

本年の干支は乙巳(きのとみ)で、柔軟性と適応力を象徴する「乙」と、再生と変化を意味する蛇を表す「巳」が組み合わさっています。

努力を重ねて物事を安定させる縁起の良い年といわれています。

その中で我々はどのように生きていけば良いのでしょうか?

日本人が日本人に騙され続け、絶対安全神話が脆くも崩れ去り、地震や洪水による大災害が我々を襲っています。それに絶対安全と言われた核施設がその被害をさらに拡大しています。そう、我々にはもう絶対はあり得ないのです。動物は食べる為に争い、人間は食べる為、経済、富の為に争います。世界の指導者達は未だもって国土の拡大の為に争い、ある国は宗教の為に、自身の信念の為に争っています。それは、100年前の古い考え方を持って国を指導しようとしているのです。

今や世界はSNSの時代に突入し、国境が必要のないボーダレスの時代に、拡大主義をかざしています。世界中の人々が考え方、哲学、宗教を少し変えれば争いはなくなると小学生でも知っています。それは相手を受け入れることです。相手を理解し、相手の立場に立って見れば解ることなのです。

私共不動産業はお客様の立場に立って、いかに争いが起こらないようにコンサルをし、5年、10年、いやもっと先を見据えた資産づくりの手助けが出来るようにします。自己研鑽し、会社組織を強化、この世の中に争いのない平和な世界を築けるよう供に努力して参ります。世の中を平和に、のかけ声も大切です。しかし、平和にする為の努力と自身の哲学と意見をしっかり持ち、ぶれない行動こそが必要なのではないでしょうか!!

店はお客様の為にある、お客様の為に我々は何をすべきか、常に考えていかねばなりません。

「山を越えるとまた山が見える」 梅原猛の言葉ですが、私たちは常に挑戦し続け、これで終わりということがないのです。

本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

 

令和7年の初めに

ラブ小松 不動産遊民

都市研究家 代表 清水 亮一

アメリカ大統領選に思う

最近の世界情勢を見るにつけ、きな臭い硝煙の匂いがするように感じます。特にイスラエルとイランの対立、ロシアとウクライナの泥沼の戦い、パキスタンのスンニ派とシーア派の宗教絡みのテロ。北朝鮮によるミサイル発射、北朝鮮兵士のロシア派遣、プーチン大統領による戦術、核の使用をほのめかす威し等々数え上げればきりが無い程です。

このような中、アメリカ大統領選が行われ、ドナルド・トランプ氏が次期大統領に選ばれました。このことを我々は、日本のTV及び新聞、インターネットの情報により知り、判断しています。私のトランプ氏評ですが、彼は現在78才で同年代であり、今の日本社会では後継者が懸念される後期高齢者です。車の運転もそろそろ覚束ない年代です。この同年代のトランプ氏がアメリカの、いや世界の指導者となって、これからの4年間の指揮を執るのです。同年代ということで励みになると同時に、大丈夫かなと言う危惧を抱いています。アメリカにはもっと若手で有能な人材はいないのか、いや、仮にいたとしてもアメリカ国民が支持しないのか、です。

私は40年程前と5年程前に2度、ニューヨークのトランプタワーを見に行きました。同年代の不動産業という同業者のトランプ氏がニューヨークのマンハッタン地区で、すごいビルを建てたという事で、興味津々でした。当時の彼は、大統領への野望など殆どないと思える程、不動産王として君臨していました。そのトランプタワーの内外装の豪華絢爛で素晴らしかったこと。58階建ての超高層ビル、宝石のティファニー店の隣地。1階はレストランパブで2階から上は有名店舗がゆるやかなスロープに沿って並び、最上階までエレベーター、エスカレーターで上がり、ゆっくりとショッピングしながら下りられる設計です。客層も上流階級が多いようです。そのうえ、5階あたりから吹き抜けになっていて、淡いベージュ色のイタリア大理石で造った所に滝があり、水がとうとうと流れているのです。まるでアメリカ中のお金持ちが皆集まっているようでした。そして、宇宙ロケットのようなボナベンチャーホテルに宿泊したのです。アメリカの繁栄、賑わいを見て、「日本はとてもかなわないなぁ」と言う感慨を抱いたものです。

しかし、2度目に行った時には、1階のレストランパブのみ営業しており、2階から上はガラガラでした。元大統領のタワービルということで、アメリカ兵が機関銃を持って、ビルに入る際に厳重なセキュリティーチェックをしていました。そのレストランでコーヒーを飲んできました。なんという差だろうとつくづく思ったものです。

アメリカは日本の約26倍の国土を持ち、資源は豊富で、人口は約2.7倍です。日本を戦争で打ち負かした国であり、世界の指導国の一つであり、とても裕福で強い国というイメージでした。しかしトランプ氏の再登場によって、どうもアメリカは昔の裕福なゆとりあるアメリカではないのではないか、本当は少数の富裕層と大多数の貧困層で成り立っている国ではないかと思うようになってきました。

太平洋戦争(1941年~1945年)後の子ども達が、ギブミーチョコとジープに乗ったアメリカの進駐軍兵士にねだった頃の強い国アメリカではなくなっているのではないか?アメリカ国民は王者の風格を持って世界に誇ったアメリカではなくなったのではないか?世界をリードするのではなく、自分の国を守る為に窮々とするアメリカになってしまったのではないか?だから、現実的、排他的な人が選ばれるようになったのではないか?

アメリカ国民の心が、世界をリードするのではなく、自国のことのみを優先する第5代アメリカ大統領ジェームス・モンローの演説したモンロー主義に戻ってしまったのかもしれません。軍事力が突出し、一部の富裕層と大多数の貧困層の国。もう豊かとは言えない国になったのではないかと思わせる大統領選でした。

私たちは今までの認識を改めなければならないでしょう。おおらかな国のアメリカではなく、ぎすぎすとゆとりのないアメリカという大国と我々日本人は付き合っていかねばならないのかもしれません。

ラブ小松

不動産遊民

都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)

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