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親友の死に接し

先日、私の幼馴染の親友が亡くなりました。彼とは小学校から一緒で、中学は別でしたが、高校は同じで、青春時代を共に過ごした仲です。一緒に語り合い、酒を飲み交わし、仕事もし、実に頼もしき友でありました。

自分の同級生が亡くなるというのは実に寂しく、自分も死をとらえる年に近づいているという思いが、ひしひしと感じられました。自分の生き様はこれでいいのか?自分らしく生きているのか?と、つくづく考えさせられました。

日本人の平均寿命は、女性は88歳、男性は82歳です。その上健康寿命というものがあり、女性は75歳で、男性は72歳と言われています。この健康寿命というのは、自分の頭で考え、自分の体を使って通常の生活を送れる期間のことだそうです。

私は76歳で、健康寿命を過ぎています。最近、物覚えが悪くなっています。子どもの頃ならスッと頭の中に入っていたことが、今では何回も繰り返すことで、やっと覚えられる次第です。また、話す上で言葉が次から次へと出てこない時、あれ何やったろう、と時間をかけると、やっと出てくることがあります。

これも年齢のせいかな、とも思いますが、私は、脳の引き出しが多くて、その引き出しを探すのに時間がかかっているからだと思うようにしています。年齢による脳の衰えのせいにせず、世の経験の積み重ねが多いせいだと。

しかし、確実に時代は変わっています。ちょっと前まで頑張っていた方が、最近は顔を見ないなと思うと亡くなっていたり、世の中の構成がどんどん変化しているような気がします。亡くなった親友も、社会の一線で大活躍され、3年程前から顔を見ることが減り、気遣っていたところ、突然の訃報でした。その人その人がそれぞれの人生で積み重ねてきたものが、突然この世から消えてなくなるのです。次の世代に、その思いは引き継がれていくものの、遺された人の人生が始まり、故人に対する記憶は次第に薄れていき、二代程経るとなくなり、故人が精一杯生きた人生は全くなくなってしまうことになるのです。人間の歴史は、何千年、何万年とその繰り返しです。その人の学歴、人生、財産等もすべて雲散霧消してしまうのです。後に遺されたものが、どう使うかによって、生きるか、生かされるか、死ぬかしてしまうのです。

要するに、財産等は遺された人によって、どう生かされるのか、どう遺していくべきなのか、ではないかと思います。そう考えると、物ではなく、自分がどう生きたかという意志がとても大切であり、伝えるべきことではないかと思います。

遺された私達は、その意志を後世に伝えていくことが、この世に生きるということではないでしょうか?昔こんな年寄りが、先祖がいたんや、と語られることが大切かもしれません。

今の世の中は非常に早く進み、人々の記憶も早く薄れがちです。しかし、何世代にわたって語り継がれていけば幸いです。今回、親友の突然の訃報に接し、少し感傷的になり、人生、死というものについて改めて考えてみました。死を覚悟することは、忌避すべきでなく、死は誰にでも平等に訪れ、避けることのできない人生の一大一幕です。常に死を意識した悔いのない生き方をしましょう。

不動産遊民

都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)

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