サンサンコーナー
私の母校 板津中学校
小松市の北の方、梯川を渡ったところにある現在の美原町に私の母校、旧板津中学校の校舎はありました。木造平屋建ての一部弐階建てで、田んぼに囲まれた非常に日当たりの良い校舎でした。
当時の板津校下は、梯町、梅田町、島田町、松梨町、御館町、大島町、蛭川町、犬丸町、長田町、高堂町、平面町、一針町、野田町、千代町、能美町等で構成され、私たちの学年は4クラス約190人が在籍していました。中学2年生の時には、全校生徒数は600人前後だったと記憶しています。
先生方は石髙寛氏、北村利子氏、新井睦子氏、小西一郎氏、中野鯰氏、前氏、正寺氏、南氏、加納氏、蓮井氏、校長先生と私の父と同窓生の荒木氏等の多志才々の先生方が活気にあふれ頑張っていました。
また、クラブ活動も活発で私が2年生の時には県の優勝旗が7本も学校に飾られていたことが記憶に残っています。私も野球部に所属し、加南地区新人大会では辻佳久投手の活躍もあり優勝しました。時の顧問は後藤長兵衛氏でした。野球を全く知らなかったにも関わらず、うまくチームをまとめあげられていました。先生が本来教示される長唄浄瑠璃の技術が活きていたのかもしれません。
とにかく先生と生徒のハーモニーが素晴らしく、非常に文武両道に励み、生徒は伸び伸びと学業にも勤しんでいました。それは何故かと言うと、梅田町は会社員の子ども、他の町は主に農家の子どもが多く、伸び伸びと育ち、そのバランスは素晴らしいものがありました。私の恩師達もあの頃の板津中学校は楽しかった、面白かった、勉強もできてクラブ活動が素晴らしかったという思い出話を聞くと、改めて素晴らしい中学校だったなと思います。
私が小学生の時は担任の先生と気が合わずあまり学校が楽しくなかったのですが、板津中学校に入学してからは、実に伸び伸びとした学校生活を送りました。今の人間形成が出来たのもこの3年間であったと言っても過言ではありません。
この板津中学校の雰囲気はどのようにして作られたのかと考えると、生徒の人数が教育に適していたのだと思います。1クラスは約40人の男女比は半々で、とてもバランスが良かったです。その板津中学校を板津、丸の内、安宅と合併しマンモス化を目指したのは、私からすれば大失敗に終わったように思います。純朴な板津、街風の丸の内、漁港の荒々しさを持った安宅の合併により、何とも言えない校風ができあがったのです。それが元の中学校に分割するという不手際です。今のそれぞれの中学校の校風は分かりませんが、昔に戻っているのでしょうか?戻っていないと思います。ちなみに私は板津中学校14回(昭和37年3月)卒業生で旧板津中学校最後の卒業生です。たった14年しか旧板津中学校は存在しなかったのです。
最近、JRの電車に乗るために明峰駅に行く途中で現板津中学生に出会うのですが、その挨拶が非常に気持ちよく、先輩の私としては嬉しい限りです。昔の板中の雰囲気が戻ってきているのではないでしょうか。
また、自然の恵みといえば白山の雄姿が望めますが、悩みがある時や行き詰まった時に白山を見ると落ち着き、常に白山に助けられ今でも白山を見るのが大好きです。
そんな自然に恵まれ、地域に恵まれた板津中学校時代の思い出は、今も私の胸の奥深くにしまわれています。やはり中学校の適正規模というものがあると思います。適正人数は何人程度か、常に研究すべきだと思います。未来の子供たちの為に素晴らしい中学校を作りましょう。
学校教育でどの時代に生徒が伸びるのかは、それぞれの時期に出会う先生との縁でしょう。教育の大切さを今更ながら思うばかりです。
不動産遊民
都市研究家 調(しらべ) 亮(わたる)
2023.5.25 | 16:03