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サンサンコーナー

フェアorアンフェアPartⅢ

世の中アンフェアな事が非常に多い。だからそのアンフェアに立ち向かう強い心を持つようにすることが教育ではないかと前回に書きました。
世の中にアンフェアな事が多いから、自分もアンフェアで良いと勘違いする人がたくさんいるのではないかと思います。勘違いしてなくてもアンフェアな人が多数で勢力がある場合、そのアンフェアの方に身を寄せる人もたくさんいるように感じられます。
それは自分の力に自信がない場合に、不承不承身を寄せるのでしょう。自分は人をいじめる事に対しては反対なのだけれども、それに立ち向かうと自分がいじめられるかもという恐怖があるからです。
これは世の中に多々ある事なのです。でもこれらの人が大勢を占めると世の中が少しおかしくなります。歪んできて何がフェアで何がアンフェアか分からなくなってきます。今の世の中がそうなのではないかと心配です。
昔はいじめっ子もたくさんいたのですが、それを救う、かばう、親分的な人、正義感に燃える人が少なからずいて、そのいじめっ子に立ち向かってくれたのです。でも今は……。
 次にフェアとは何かという事を学校で教えなくなってきたことです。人間何が得か何が損かという損得は、教えなくても覚えます。今は物事をする時に損得のみで考える傾向がとても強くなってきているように感じます。
いじめられっ子をかばうと得か損か?得にもならん、いらん事して怪我でもしたら損やと、見て見ぬふりをする人がとても増えているのです。そして、そのいじめられっ子になるのは、明日は自分なのかもしれないという事を忘れているのです。そうです。その事は、実は他人事ではなくて、自分にふりかかってくる可能性が大なのです。今の自分にふりかかってこなくても、自分の子供、自分の孫、にふりかかってくるかもしれないのです。
でもそんな遠い先の事はどうでもいい、今さえ良ければという刹那主義が、頭をもたげてきます。それでいじめの問題については、法律で取り締まらなければ、担当者に責任を負わさなければ、という方向へ動いています。今では可哀そうに担当の先生、教育長なんかは社会全体のいじめられっ子になっている観があります。酷いのになると、それを金槌で殴りにいくような正義?の声が出始めるようになっています。何をか況やです・・・!
そしてそのいじめ防止を法制化しようという動きは又大変難しいものです。
何が難しいかと言えば、法制化とは文章化する事なのです。この文章化程難しいものはありません。いじめっ子がいじめられっ子にゴミと言った。死ねと言った。机に死んだ虫を置いた。いや誰も遊んでくれん等‥。いろいろな事。その言葉もニュアンス、強さ、声の大きさ等の違いによって全く感じ方が違うのです。
そうです。感じ方、いじめられっ子の感じ方によって全く言葉の意味が違ってくるのです。私等も友人からいろいろ言われますが、そんなもん、いちいち気にしていたら生きてられませんよ。そんなもん全く気にしない。それは何故か。今では、友人達は悪意で言っているわけではないという信頼関係があるからなのです。よしんば悪意があったとしても、こちらがそれをそんな風にとらなければいいのです。このいじめは私の事を好きだからしてくるんだと思えたら、それでもう解決なんです。例えそう思えなくても、これは神が私に与え給うた試練なのだと思えたら最高です。
 何故なら、世の中で成功している人は、私の独断と偏見で言わせてもらえれば、どちらかと言えばいじめっ子よりいじめられっ子、優越感を持った人より、劣等感を持った人の方がはるかに多いのです。コンプレックスを持った人、アインシュタインも司馬遼太郎も、まさにそんないじめられっ子だったのですから。
 でもフェアかアンフェアかをキチッと判断できる人間になるよう、地道な努力は続けなければなりません。地道な努力を続けましょう!

調亮

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